農のオーベルジュ 白金の森

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兄弟経営のスタート。3本の矢を目指して。 

第四話・創業から6年

昭和44(1969)年に養鶏業をスタートして以来、何も分からない素人同然だった私は、周囲の力を借りながらも、基本的にはひとりでいくつもの立ちはだかる壁に立ち向かってきました。そんな私に、創業から6年経ち、次の段階へのキッカケが訪れます。


——あれは、昭和50(1975)年の大晦日のことでした。

2歳年下の弟・幸雄とこたつで酒を酌み交わしていた時、彼はこんなことを言い出したのです。「兄貴、実は銀行を辞めたいと思っている」と…。

幸雄は、菊池高校を卒業後、西日本相互銀行(現・西日本シティ銀行)に入社し、広島に勤務していました。

「おまえは背広が仕事着だろう。良か仕事に就いたね」
銀行員である幸雄が自慢だった私が、こう言うと

「兄貴。実は銀行を辞めたいと思っている」
思いもしない言葉が返って来たのです。

「数字を追いかけるばかりの毎日で、将来は子どもたちも転勤で連れ回すことになる。これが生涯を懸ける仕事なんだろうか…」
幸雄は胸の内を一気に吐露しました。


他人の芝と仕事はよく見えるといいますが、
なるほど。と思いました。

その後も帰省するたびに、「独立して事業をやりたい」と口にする幸雄に、両親は猛反対です。私も当初は同じ気持ちでしたが、次第に幸雄の本気度を感じるようになっていきました。


しばらくすると、今度は電電公社(現・NTT)に勤めていた4歳違いの末弟・義雄も「俺も兄貴と一緒にやりたい。辞表を書いて帰ってくる」と連絡して来たのです。

今思えば、2人で話し合っていたのかもしれません。
身内ゆえにまとまりがあるメリットと、ぶつかりやすいリスクもあります。
嬉しい反面、迷いもありました。


難しい舵取りになるな…
それぞれの妻は納得するのか?

いろいろと考え、悩み、出した答えは
「3人でやってみよう」です。

2人の弟を会社に迎えるにあたり、当時、鶏の飼育は5,000羽に増えていましたが、タマゴの値段は上がらず、業績は厳しい状況が続いていました。

そこで考えたのが、兄弟で経営するための「3原則」です。

1.ポストに関係なく給料は一律にする
2.議論は徹底的に行い、外部に出すときは必ず一本化する
3.役割分担を明確化する


それぞれの役割分担は、
幸雄は、元銀行員の経験を活かし、会社の経理を含め、金銭に関する収支関係を担当。電電公社で販売畑にいた義男は、鶏の生産管理や商品開発を担当。そして、私は、全体をコントロールして「3本の矢を固める」ことに決めました。



そして、昭和56(1981)年に、個人経営から、有限会社「松岡食品養鶏センター」を立ち上げたのです。


「松岡兄弟は仲がいい」と、よく言われますが、
よくケンカをし、お互いに意見を出し合い、力を合わせてやってこられたのには、3原則の厳守を徹底したことがあると思います。


そして、欲を出さず
「私より、あなたのために」
そんなシンプルな考えが良かったのかもしれません。

そして、弟たちは
「転職の強い決意」がエネルギーの源になったと思います。


次回のブログは……
「失敗からの学び、出会いからの発展」のお話です。




 

 
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